ARBITRO MAGAZINE

THE HISTORY OF SEIKO Vol.1

About SEIKO
 

Contents

はじめに

日本が世界に誇る時計メーカー、SEIKO(セイコー)。

セイコーというと安いというイメージが少しあるかもしれませんが、その歴史はロレックスよりも古く、スイスの高級メーカーに負けない時計作りをしてきた会社なのです。

最高峰モデルのグランドセイコーをはじめ、セイコーダイバーズ、セイコー5などジャンルの異なる様々な時計を送り出しています。

日本国内では一定の評価がされてきましたが、近年、グランドセイコーのデザインやその生産技術が海外で高く評価され、その源流でもあるヴィンテージのセイコーを求める海外のコレクターが増えています。

グランドセイコーは最近メディアでも良く見ますが、セイコーという会社についてはそれほど知られていないのでは無いかと思います。
今回はそのセイコーの歴史を紐解きます。

創業者 服部金太郎

1881年(明治14年)、服部金太郎が時計の修理・販売をする服部時計店を創業したのがセイコーの始まりです。
当時はもちろん国産時計は無く、舶来時計、つまり海外の時計を販売するお店でした。この小売店はきっちりと期日内に支払いをすることで外国商館の信用を得て、この事業は順調に発展していきます。

1892年、小売で成功した服部金太郎は稼働していないガラス工場を買い取り、時計の製造に乗り出します。これが精工舎という工場でした。
「精巧な製品」により、欧米に負けない時計事業を日本に興すという強い覚悟が「精工舎」の会社名に込められています。

この「精工舎」が「セイコー」の由来です。精工舎で掛時計の製造をしたのがメーカーとしてのセイコーの始まりとなる訳です。
また、「良品はかならず顧客の愛顧を得る」という信念のもと、「品質第一」「顧客第一」とするモノ作りを第一としていました。

1894年、服部時計店は銀座4丁目へと移転します。新聞社だった建物を買収し、アメリカで建築を学んだ伊藤為吉という建築家の設計で時計塔付きのモダンな建物の店舗になりました。

1895年、初の懐中時計「タイムキーパー」の製造を開始。そして輸出も開始。創業時から世界へ目を向けていました。1905年には上海と香港に販売代理店を開設しています。以後、欧米の時計先進国に追い付くべく矢継ぎ早に商品開発を行っていきます。1902年には懐中時計の「エキセレント」、1909年には大衆向け懐中時計「エンパイヤ」を開発します。

国産初の腕時計 ローレル

1913年、国産初の腕時計「ローレル」を発売します。それまで欧米に大きく遅れを取っていた国産の時計産業ですが、世界で腕時計の量産の量産が始まってからわずか3年後に発売したというこのローレルは欧米に少しではありますが近付いたことを示すエポックメイキングな製品となりました。

出典:セイコーミュージアム

第一次世界大戦の勃発により、輸出が急増します。ドイツ製の輸出が止まったことも影響し、イギリスやフランスから大量の目覚まし時計を受注。大戦が始まるや否や材料を大量に輸入して特需に備えていたことが成功の要因でした。他の国産メーカーは材料不足に陥り、このチャンスを逃したということでここに服部金太郎の経営者としての先見性が見られます。

1923年
、関東大震災により工場や営業所が全て焼失。しかし、2ヶ月後には営業を再開します。さらに、燃えてしまった修理預かり品の1500個を新品に交換するという新聞広告を出し、ピンチをチャンスへと変えます。

1924年、セイコーブランドとして初の腕時計を発売します。それまでは製品毎にブランド名を入れていましたが「精巧な時計を作る」という原点に立ち返るという思いからこのブランド名が誕生しました。創業時から会社のトレードマークを創案するなど、服部金太郎はブランディングやマーケティングの重要性を強く意識しており、それが現れた製品となっています。

1929年、「セイコーシャ」が鉄道時計として採用されます。日本の鉄道はそれまでアメリカのWALTHAM(ウォルサム)の鉄道時計を採用してきましたがこの年から国産へと切り替わります。
19型というケースサイズから通称「19セイコー」と呼ばれるこの懐中時計は現在に至るまで国鉄・JRグループで標準採用されています。(現在はクォーツ式)

1932年、創業者の服部金太郎が永眠。73歳でその生涯を閉じます。

第二精工舎の誕生

1937年、腕時計の生産増強を図るため腕時計部門を独立させ、株式会社 第二精工舎 (現 セイコーインスツル)を設立します。亀戸にあったこと、後に誕生する長野の諏訪工場との区別で亀戸工場という名で呼ばれることもあります。ここから一気に事業を加速させると思った矢先に日中戦争、第二次世界大戦が起こり、工場は兵器類の生産に移行せざるを得ない状況となってしまいます。

1894年に移転した銀座4丁目の本店ですが、1932年に建て替えられ、補修を経て現在はこのような状態になっています。


銀座に来たことある方は勿論、地方の方もニュースなんかでも見たことがある建物ではないでしょうか。「銀座 和光」ですね。日本で一番地価の高い場所として有名です。1㎡あたり5,550万円、坪単価は1億8,000万円というとんでもない金額の土地となっております。

この建物の敷地面積は924㎡ですので現在の地価をベースにすると500億円以上の価値があるという計算です。実はこの「和光」は服部時計店の小売部門が独立した会社なのです。

1945年、第二次世界大戦が終わるとこの建物は連合軍のP.X.(Post Exchange)という売店として接収されました。
その間、服部時計店は同じ銀座の違う場所で営業を続けていたそうです。

1947年、服部時計店の小売部門は独立し、株式会社 和光が設立されました。1952年に接収が解除されるとこの建物での営業を開始して現在に至ります。
老舗の時計・宝飾品店ということは知っていましたがまさか元々セイコーだったとは今回、調べて初めて知りました。セイコーホールディングスの登記上の本店はこの和光の住所になっています。

戦後、第二精工舎は壊滅状態となってしまったため疎開先のいくつかの工場で生産が再開されますが、1949年には諏訪工場以外は閉鎖して亀戸工場を中心とした復興を図ります。

日本政府の方針から輸出のための産業が優先的な位置付けとなり、軽工業の時計産業もその一つとして支援を受けます。また、1948年から通産省が時計コンクールを実施して、各社が技術の工場を図ったことでセイコーを含む国産時計の品質がスイス製に近づいていきます。

今回は時計よりも歴史的な背景がメインとなりました。長くなりましたのでVol.2へ続きます。いよいよセイコーの代表的な時計が続々と登場します。

参考ページ
「服部時計店の略歴」  TIMEKEEPER 古時計どっとコム 
「セイコーの歴史」 セイコーミュージアム 
「和光と時計塔の歴史」和光 
「沿革」 セイコーホールディングス
「The History of Seiko Through 12 Milestone Seiko Watches」 WatchTime
「懐中時計」 Wikipedia

 
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